先日、日芸の同期と恩師の偲ぶ会をするために都内で会いました。
その時に、今はなき「所沢校舎」について様々な思いを綴った冊子を、預かりました。所沢校舎がなくなってしばらくした後に刊行されて、無料でいただけたようですが、なかなかそのご縁がなく、やっと手元にやってきた、といった感じです。
内容も写真などもたくさんあり、ありし日の所沢校舎の姿がしっかり残されていまた。
校舎の中に「ブラックボックス」という、舞台創作ができる実習室があり、そこで発表した実習のフライヤー、だとか、その公演自体の写真だとか、色々です。懐かしさでいっぱい。
所沢校舎が建てられたのが、ちょうど平成元年だったそうです。奇しくも、解体されたのが、平成30年。平成最後の年になったのでした。
私たちは、所沢校舎がたてられた翌々年に入学。江古田に通えないとブツブツ文句を言いながら、延々と遠い所沢校舎に通ったものです。
「学バス」というのが、「航空公園」というマイナーな駅から運営されてるんですが、回数券でないと乗れず、忘れたり、なくなっていたのに気づかなくて、見ず知らずの学生と思われる方にその場で声をかけて譲ってもらったりしたものです。そのバスに乗れなかったら1限に遅れるーという恐怖の夢を時々見たりします。笑笑。帰るのもバスの時間を気にしながら。。。一つ帰りのバスを逃してしまい、次のバスまで30分暇になって、よく学食で友達とくだらない話をしながら100円で揚げたてのフライドポテトを食べたものです(美味しかった♡)。
その所沢校舎。
当時の日芸の先生方の間で、江古田と所沢校舎に分かれることに、つまり所沢校舎設立に賛成派と反対派で意見が別れていたそう。
もっぱら、反対派が多かった模様です。
「江古田」という校舎で、上級生から刺激を受けながら学ぶ。
そんなあたり前のことができなくなる。(1・2年生は所沢校舎。3・4年生は江古田校舎。)
ただ、私たちは「第二次ベビーブーム」でしたので、生徒を受け入れるには、江古田では手狭だったこと。
第二次ベビーブームの時にたくさんの学生を受け入れたことで、今の新校舎が建ったこと。終わってみれば、そのような利点もあったとのことです。
さぁ、でも芸術学部、という形のないブランド力は維持できただろうか。
それは、まさに、私たちにかかっている、ということになりますでしょうか。汗。
しかし、新しい江古田の校舎は、何度か訪れましたが、すっかり綺麗になりすぎてしまっていて、昔の面影がまるでなくなってしまって、病院のようなんです。
昔の江古田校舎には、卒業生や在学生が「日大」と言わず「日芸」と呼ぶにふさわしく、代々の先輩たちが刻んだ芸術への思いが染み込んだような校舎でした。趣が建物にあったのです。
日大の不祥事があったことも記憶に新しいです。大なり小なり、大学の運営は金の流れも大事であるという芸術にはふさわしくない話をしなくてはいけなかった当時の先生方を思うとちょっと切なくなりました。所沢校舎の設計も先生方がされたんだそうです。すごいね、日大。
お金と芸術。
綺麗事ではまくいきません。
でも、芸術をする人には芸術をさせてあげて、お金のことは、お金を考えるべき人がやる、これが上手くいくのかもしれません。
大きい組織ではさぞやご苦労もあったことであろうと思います。そんなことつゆ知らず、好き勝手わがままし放題だった学生の頃の私たちです。ばちが当たらないように、諸先輩方のように大きな心で次の世代の育成にあたりたいものです。
小さなバレエ教室であれば、自分でお金のことも考えてやりくりしなくてはいけなくなります。それを上手にどなたかにやっていただいている先生もいらっしゃると思いますが、ご自分でやっておられる先生もいると思います。日本のバレエ教室は頑張ってるよなーと思ったりします。それは、お金がない時代、理解されない時代に、それでも芸事に、文字通り 命 を捧げてきた先輩方の片鱗が、まだ私たちに残っているからだと思います。もう時代は古いと思うし、時々心が折れそうになりますが、そんなもの(大切にするのはお金じゃないこと)が、人間には必要なんじゃないかと思うのです。ただただ綺麗事を並べた、稼ぐための芸術。ペラッペラに薄くなりそう。
AIが美しく綺麗に質問に回答するけど、あれ、いいんですかね?と思っています。ペラッペラに薄い解答。マジで。この話は、また明日しよう。。。
お金なんて所詮無くなるものです。あった方がもちろんいいけれど。死んだら持っていけるものは、自分が一生懸命やった記憶のみになるんじゃないかと思っています。誰かの記憶の片隅に残るような生き方、残らなくても良いから、とにかく一生懸命に生きていようと思います。おまけに誰かの助けになっていたら万々歳だなぁと思います。
長くうだうだとすみません。
今日も好き1日を!
読んでいただきありがとうございました。